新・風の谷の生活

食糧自給率の向上を目指して!

「なぜ、この谷のように暮らせぬのか」
腐海という危機を前にしても戦争に明け暮れる諸国を、ユパはこう嘆いています。
現在の地球が置かれている状況は、この台詞に表されているように思えませんか。
ならば、風の谷のように暮らしてみよう。
私なりの解釈の元、片田舎で自給自足型農業を始めることを決意したのです。

前回の結論は、法律は、国民のほとんどが理解できる内容であるべきというものでした。

 

 

では、どうすれば良いのか?

 
国民が法律を理解するためには、二つの糸口があります。
一つは、法律そのものの整理して理解しやすいようにすることです。
もう一つは、法律を理解するために必要な学力を、義務教育でしっかりと行うことです。

 

 

法律は、継ぎ接ぎで作られています。

その要因の一つとなっているのは、技術の進歩により、新しい可能性が生まれてくるためです。

進歩の中には、テクノロジーの他に、社会システムの進歩も含まれます。
例えば、保険会社が出す新商品のように、サービスの内容の進歩が含まれます。

この新しい可能性は、悪用や不公平等の問題を生み出す場合があります。

そういったマイナス要素を抑え、社会の利益となるようにするために、新しい法律が必要になるのです。

 

ただ、一つの疑問が生まれます。

なぜ、新しい課題は、従来の法律の解釈の範囲内に収まらないのか?

新しい法律を作れるという事は、概念的には従来の手法が有効なのです。

ところが、法律の解釈の分野では、従来の概念を適用できないのです。

使う際には利用できない概念が、作る際には利用できるとは、理系人間にはちょっと不思議な感じです。

 

この要因は、最高裁の判例にあるようです。

判例が、判断の基準になると同時に、制約にもなるのです。

しかし、判例自体、対象となっているのは、特定の案件です。

当然、狭い範囲に限定された判断になってしまうと思われます。

もちろん、考え方を明確にはするので、ある程度の応用は可能ですし、「法の下での平等」との思想からも、一つの判例に基づいて以降の判決を行うことは悪くはないと思いますが、「最良か?」と問うた時、「最良だ!」とは返せないと思います。

例えば、最高裁の判例がない内に、一審で結審した場合、その後に最高裁が異なる判例を作り出すかもしれません。これは、「法の下での平等」にはそぐわない事例と言えます。



法律は、その体系の中で、新しい課題を受け止められなければなりません。



次回は、法体系の見直し方です。
(※少し間が空きそうです)


スピンオフ版として、あるべき法律体系について、まとめてみます。

  

このような話題を取り上げると、ほとんどの場合、農業を優先する法律を作るべきとか、
環境を守る法律を作るべきといった内容になりがちです。

ですが、今回は人口減少と絡めた内容です。

 

 

日本の法律は、非常に複雑です。

それは、量的に莫大なためでもありますが、論理的にも体系的にも複雑なのです。

それゆえ、一般人には理解不能で、弁護士でさえ、分野毎に専門化しつつあるのです。

 

これは、法律の役割を考えると不可解な状況です。

そうですよね。

だって、法律を守らなければならないのは、国民全員なのです。

法律は、社会をスムーズかつ公平に動かしていくために存在するのです。

人を罰するために存在する訳ではありません。

弁護士でさえ把握しきれない、あるいは個々に解釈が異なる現状は、法律としてのあるべき姿とは思えません。

 

 

ならば、どうあるべきなのか?

 

あるべき論で言えば、国民のほとんどが理解できる内容であるべきです。

そうすることで、法律は合理的に運用できるようになります。



あるべき姿にする方法の整理は、次回にまとめることにします。

巷では、様々なダイエット術が溢れています。
これらのダイエット術は、基本的に経験則によるものです。
その点で、地震予知とよく似ています。
地震予知も、全て経験則によるです。

「ダイエット術は理論的に導き出されていますよ!」
そんな意見もあるでしょう。
ですが、思い返してみてください。
ダイエット術に、体重が体外に出ていくルートを示したものがあったでしょうか?

「質量保存の法則」は、誰でも御存知でしょう。
質量保存の法則がある以上、
体重が減ると言うことは、体のどこかから質量が体外に出ていくはずです。
ところが、
質量(体重)が体外に出ていくルートを示したダイエット術はありません。
「代謝が上がったから」は、間違いではありませんが、
質量が体外に出るルートを示していない以上、後付けの感は免れません。
結局、ダイエット術は経験則でしかないのです。


このダイエット術と似ているのが、地震予知ですが・・・
地震予知の方が、ダイエット術よりもレベルがかなり低いようです!
ダイエット術は、質量が体外に出ていくルートこそ説明できていませんが、
かなり近いところまで説明できています。
一方で、地震予知は、前兆と地震自体との間の空白部分を無視している等、
全く論理的ではありません。
その割には、有料の地震予知を展開し、それに騙される人もいるのです。
地震予知の現状は、極めて暗い状況だと言えます!

電気自動車にしろ、ハイブリッドにしろ、PHVにしろ、FCVにしろ、回生ブレーキを用いるパワーユニットはFFがお好きなようです。

一番お好きなのはAWDですが、同じくらいFFが好きなようです。

MRやRRは嫌いではないようですが、FRはお嫌いなようです。

 

 

 

さて、少し真面目に考えてみましょう。

ハイブリッド車や電気自動車のように回生ブレーキを持つ車は、通常は制動力を駆動輪に伝えることでブレーキをかけます。

つまり、駆動輪以外はノンブレーキなのです。

例えば、FFならば後輪、FRならば前輪はノンブレーキとなります。

もちろん、フル制動時は全ての車輪で通常のブレーキで制動を掛けますが。


急に止まろうとすると前につんのめる経験は、誰しもあるものです。
車でも同じです。 

重心が接地面より高い位置にあるので、制動時は荷重が前輪側に移動します。

駆動方式毎の前/後輪の荷重比率は、通常状態では概ね下記のような割合となります。

 

  FF……60:40 ~ 65:35

  FR……50:50 ~ 55:45

  AWD…50:50 ~ 60:40

  MR……40:60 ~ 45:55

  RR……35:65 ~ 40:60

 

これが、フルブレーキではどう変化するでしょうか?

20~25%程度、前輪側に荷重が移動すると考えて良いと思います。

大雑把に、以下のような割合になります。

 

  FF……85:15

  FR……75:25

  AWD…80:20

  MR……65:35

  RR……60:40

 

 

荷重が大きく前輪に移動することが分かります。

こんなに荷重が移動するなら、後輪駆動の電気自動車では荷重が抜けるので、回生ブレーキで充分な制動力を得られません。

制動力の不足分は、通常のブレーキを使うしかないので、運動エネルギを回収できず、燃費が悪化します。

 

世の中には、FRのハイブリッドもありますが、ハイブリッドや電気自動車は、FRとは相性が良くありません。

その点、FFは制動時に駆動輪に荷重が加わるので、相性が良いと言えます。

理想的にはAWDが良いのですが、近年のタイヤ性能の向上ぶりを考えると、軽量化しやすいFFがバランスが良いように思います。

 

 

現在の自動車の動力性能は、公道を走るなら十分すぎるところまで向上しています。

今後は、快適性と安全性の向上が主となると予想されます。

従って、タイヤ性能の向上と同期して、将来的には、四輪の荷重は均等か、やや後ろ寄り(加速より減速性能が求められるため)に変化していくと思います。
最大の重量物になる電池は小さくはありませんが、分散搭載も可能ですし、形状の自由度も多少はあるので、搭載場所の自由度は低くありません。
重心位置は、自由に設計できます。
また、モーターは軽くありませんが、小型なので搭載位置の自由度が高く、インホイールモーター等の搭載方法も可能になります。
ガソリンエンジンなどの内燃機関は、単室排気量が大きいほど効率が向上させやすいので、エンジンは大きな一台にまとめる方が有利でしたが、モーターは小型にしても効率はほとんど同じですので、複数のモーターに出力を分散することができます。
つまり、AWDを採用しやすいのです。

そうなると、FFは廃れていくのかもしれませんね。

 

 


反原発を掲げる政党に言っておきたいことがあります。
 

反原発が個人の主張なら良いのですが、政党が主張するので、呆れてしまいます。

政治家であれば、理想を掲げ、そこに至る道筋を示し、妥協を重ねつつも、最終的に理想に近付けていくのが採るべき政策でしょう。


ところが、原発廃止については、「廃止できる」から「廃止すべきだ」となっています。

肝心なのは「廃止すべきか?」であって、「廃止できる」/「廃止できない」は、その先に考えることです。
「廃止すべき」と決まったら、「廃止できない」と言われても、どうやれば「廃止できる」かを検討して実現していくのです。
「廃止できるから廃止すべき」は、論理として間違っています。

初めに「原発廃止ありき」の主張では、議論の予知はなく、主張が通るか、通らないかの2パターンになってしまいます。
主張が通らなければ、安全ではない原発まで再稼動させることになりかねません。

妥協無き主張は、議論にならないので、極論で対抗することになります。
極論の一つが、『安全神話』なのです。

どうやら、昔の『安全神話』を生んだ土壌が、今も続いているようです。


 

太陽光mini



 

ついでに、地球温暖化防止の急先鋒にも言っておきたいところがあります。


反原発派と同様に、地球温暖化防止が正義のように思っているようですが、それは議論のすり替えです。

この世に絶対的な正義はありません。
それに地球温暖化防止は、人類のためであって、地球のためではありません。

温暖化は、地球の歴史の中では誤差程度の変化です。

その僅かな変化でも、人類の損亡に関わるだけです。

仮にこのまま放置したとしても、地球の生物が絶滅する事はありません。

過去に何度か起きた大量絶滅にも及ばないでしょう。

過去の生物による環境破壊では、植物の誕生による大気組成の激変があります。

しかも、大気に増えたのは、強い酸化力を持つ猛毒の酸素だったのですから、生態系も激変しました。

環境破壊前の嫌気性生物の代表が、破傷風菌です。

 


私はエゴイストです。

だから、私と私の子孫が生き延びるのに都合が良い環境を守ろうと考えています。

私は、エゴイストであると同時に、地球にかつて無かった知的生命だと自負しています。


その環境を生き残るために都合が悪い生命は、知的ではない故に淘汰されるだけでした。

自分に都合が良い環境を維持しようと考える生命こそ、知的生命の条件の一つを満たしているのです。

アメリカ大統領は、知的ではありません。

彼は、今だけを考えている下等生命です。

私は、彼より進化した知的生命です。

そして、エゴイストです。

将来に何を残すのかを考えられる生命です。

反論が来そうですが、その中に私より知的で、私よりエゴイスティックな生命体が居ることを期待しています。

 

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