手術の翌日の日記から書きます。
入院当日から続いている寝不足は、ここに極まれり!
 
【1月18日土曜日】
昨夜は、寝られませんでした。
隣がうるさかったのです。
HCU室は時計を持ち込まないことになっていました。
だから、隣の患者さんは、看護師が来るたびに時刻を聞くのです。
夜中の見回りでも、時刻を聞くので、そのたびに浅い眠りから覚まされるのです。
おまけに、電動ベッドを繰り返し操作するのです。
「背中に麻酔が刺さっているので、危険です。操作する時はナースコールしてください」と看護師に注意されても、それを無視して操作するのです。
私は、血圧計が二時間毎に計測していることを看護師から聞いて知っていたので、それを基準にして大まかな時刻はわかっていました。
隣が看護師に聞く時刻で、誤差を修正することはありましたが、一晩中、何時頃かわかっていました。
逆に言えば、ずっと寝れなかったのです。
唯一、午前三時頃から起床時間まで、ウトウトしただけでした。
 
時刻不明
おそらく、七時台。
足に付けられていた血栓予防のエアマッサージャーが外されました。
足首から脹脛へ毎分一回の割合で動くのですが、気持ちのいい装置でした。
右手の血圧計、左手の血中酸素濃度センサー、鼻の酸素チューブも、外されました。
スッキリ、開放された気分です。
 
七時過ぎ
主治医がやってきました。
今日は土曜日。
「いつ休んでいるんですか?」と医師と看護師に言うと、笑っているだけ。
 
電動ベッドを起こしてみると、途端に暑くなり、汗が噴き出してきました。
気にせずに更に起こすと、今度は気持ち悪くなってしまいました。
だから、直ぐにベッドを戻しました。
 
私のベッドは、HCU室の窓側にありました。
でも、窓から見える景色は空だけです。
窓まで行けば、スカイツリーが見えるはずですが、ままなりません。
看護師が来た時に、「今日の目標は、HCU室の窓からスカイツリーを見ることです。明日の目標は、歩いて七東病棟に戻ることです」と宣言してしまいました。
その第一段階として、ベッドを起こす練習を再開しました。
 
レントゲン撮影のために、機材を持ち込まれました。
四人部屋だから、四回被爆することになります。
でも、レントゲン技師が避難する距離を見ていると、被爆はほとんど無いと考えて良さそうだとわかりました。
 
十二時
朝に続いて、ジュースが出ました。
朝は、アップルジュース、昼は、オレンジジュース。
 
十四時頃
歩行練習が始まりました。
HCU室を出て数メートル歩き、洗面台で座って歯磨きをするだけですが、それさえ辛いのです。
ベッドに戻ると、直ぐに体を水平にして体を休めました。
家族が面会に来たので、ティッシュを追加し、時計を取ってきてもらいました。
時計代わりの血圧計を外されたので、時刻がわからなくなりそうだったのです。
 
十五時頃
ガスが出ない内に、便意を感じました。
看護師の補助でトイレに行ったのですが、何も出ません。
なんと、看護士にお尻まで拭いてもらう始末。
情けない!
でも、この時に看護師さんが私の今日の目標を思い出し、窓まで行くのを手伝ってくれました。
青空を背景にスカイツリーを見て、今日の目標は完遂です。
 
十六時半
家族が帰った直後にガスが出ました。
隣は、家族に取って来させた携帯電話を弄っているところを看護師に注意されていました。
業を煮やした看護師は、携帯をサイドロッカーの小さな金庫の中に入れたようでした。
 
十八時半
夕方のジュースが出ました。
今回は、ピーチジュース。
 
二十時頃
「血栓予防の注射をします」
そう言うと、看護師はお腹に注射の針を刺しました。
針が入った瞬間にビクンと腹筋が痙攣しました。
人生で、最高に痛い注射でした。
 
二十一時
隣は、消灯後もひっきりなしに電動ベッドを動かしていました。
それが、三十分も続くのです。
電灯を点けては看護師に注意されるし、手術後の体を癒す状況ではありません。
「眠れないのでしたら、睡眠導入剤を出しましょうか」との看護師の提案を隣の患者さんが受け入れてくれたので、ほっとしました。
事実、隣が寝てくれた二時間ほどの間、私も寝る事ができました。
 
二十三時半
隣のベッド周辺が、異常に騒がしくて、目が覚めました。
何かを複数の人間が担ぎ上げるような掛け声と音。
何かを運び込む音と足音。
電気も点いていて、大勢の人間が入り乱れているのです。
隣がベッドから落ちたのでしょうか?
ただ、私はいつの間にか眠りに落ちていました。