日本学術会議の任命問題は、連日、国会でも取り上げられています。
答弁によって、少し状況が見えてきたように感じます。

日本学術会議から、次期会員の推薦状が届いたが、前回の推薦のように、予めお伺い立ててこず、いきなり定員ピッタリの105名分だけ届いたのでしょう。しかも、政府としては任命したくない6名が含まれていたため、菅義偉氏にその旨を伝えて判断を仰ぐことにしたのかな。
日本学術会議に出し直しを命ずる時間的な余裕がなかったので、任命拒否が法的に問題ないことを確認した上で、6名を外した99名のみの任命を日本学術会議へ通知したのでしょう。

私は、『学問の自由』や『違法性』は、気にしていません。
特に、『違法性』はないと考えています。原則として、任命者には任命責任があります。その責任を果たすためには、任命拒否は正当な手段だと考えています。
ですが、推薦に基づいて任命するのですから、正当な理由もなく任命拒否できるとは考えません。任命拒否の理由を付して、任命を拒否すべきです。今回は、全員ではなく、一部を任命拒否しているので、任命した者と拒否した者の違いを明確にするべきです。
「総合的、俯瞰的に判断した」というのは、任命拒否の理由にはなりません。なぜなら、任命した理由も、任命拒否した理由も、「総合的、俯瞰的に〜」という同一の理由になってしまい、同じ理由で逆の判断をしたことになってしまいます。
最大の問題は、任命拒否の理由です。

首相サイドは、「旧帝大系が多い」とか、「女性が少ない」とか、「若手が少ない」とか、言っています。理由は、出てきているので、理由が妥当か議論し、妥当でないなら任命すべきです。
首相サイドが本気で言っているのなら、この理由は妥当ではないので、任命拒否の理由にはならないことは明らかであり、任命を拒否することはできません。直ちに、任命すべきでしょう。
政府は、「54歳は若手ではないのか?」との質問に、「若手とは言えない」と答弁しています。
国会閉会までに決着しなかった場合、日本学術会議の会員で、54歳以上、まては旧帝大系出身者は、全員が辞表を出すのも良いでしょう。更に、男性会員の半数も、辞表を出すと良いでしょう。会長も還暦を過ぎているので、辞表を出すことになります。
これで、日本学術会議の構成メンバーは、名目上は正常化します。
単純に全員が辞表を出すより、この方が話題性が高いと思います。

どのように決着するのか、自然消滅するのか、まだわかりませんが、民主的な手続きがなされることを願っています。


さて、日本学術会議の任命拒否問題の根幹が『拒否理由』であるように、首里城再建では、『失火原因』がその根幹部分にあります。
失火原因は、既に最終報告が出ていますが、内容は『原因不明』となっています。
ここで注意すべきは、配電盤周辺からの失火が強く疑われるが、失火原因を断定するには至らなかったということです。つまり、失火原因を断定できなかっだけなのです。

首里城の焼失では、他にも、類焼を防げなかったことも、大きな問題でした。
スプリンクラーの未設置もそうですが、放水銃からの放水を妨げる設置物があったことも、大問題です。この遠因となったのが、消火訓練の未実施です。
消火訓練もしない内から、御庭でのイベントを開催しています。客船の乗組員の全員が避難訓練をしていなかったとしたら、そのきやになるのでしょうか。沖縄県は、それをやってしまったのです。おまけに、原因究明が始まる頃には、再建を訴え始めていたのです。
正直、反省の色はないと思いました。
日本政府と沖縄県は対立関係にありますが、桜を見る会を有耶無耶にした安倍政権と、失火原因が原因不明のままに再建を急ぐ沖縄県は、私には似たものに見えるのです。

再建では、スプリンクラーなどの設備を充実させるとしています。
ですが、スプリンクラーは、初期消火の設備です。失火を防ぐ設備ではありません。むしろ、反省の色を感じない沖縄県なら、スプリンクラーなどの設備で慢心するのではないかと、不安になります。
失火を防ぐには、ソフトウェアが大事です。
失火原因や消火体制、避難誘導てじや宝物の運び出し手順、職員のみならず、観光客への周知など、人がその手で行う防火・防災対策が重要です。
スプリンクラーが設置してあると安心していると、落雷・台風・地震などで被害を受けるかもしれません。建物は無事でも、死傷者が出るかもしれません。
再建が完了するまでに、ソフトウェアを整えていってもらいたいものです。

私は、再建には賛成ですが、早速な再建には反対です。
30年前、多くの方の努力で、首里城は再建されました。そして、沖縄県の象徴として定着しました。多くの県民に親しまれました。
それを想う時、首里城を失火で失った責任をどう捉えるのか、管理責任を負う沖縄県が真剣に反省してほしいのです。
もし、御庭でのイベントを再開するのなら、どういう意味を持つのか、沖縄県民も真剣に考えてほしいところです。