新・風の谷の生活

食糧自給率の向上を目指して!

カテゴリ: 地球温暖化

電気自動車にしろ、ハイブリッドにしろ、PHVにしろ、FCVにしろ、回生ブレーキを用いるパワーユニットはFFがお好きなようです。

一番お好きなのはAWDですが、同じくらいFFが好きなようです。

MRやRRは嫌いではないようですが、FRはお嫌いなようです。

 

 

 

さて、少し真面目に考えてみましょう。

ハイブリッド車や電気自動車のように回生ブレーキを持つ車は、通常は制動力を駆動輪に伝えることでブレーキをかけます。

つまり、駆動輪以外はノンブレーキなのです。

例えば、FFならば後輪、FRならば前輪はノンブレーキとなります。

もちろん、フル制動時は全ての車輪で通常のブレーキで制動を掛けますが。


急に止まろうとすると前につんのめる経験は、誰しもあるものです。
車でも同じです。 

重心が接地面より高い位置にあるので、制動時は荷重が前輪側に移動します。

駆動方式毎の前/後輪の荷重比率は、通常状態では概ね下記のような割合となります。

 

  FF……60:40 ~ 65:35

  FR……50:50 ~ 55:45

  AWD…50:50 ~ 60:40

  MR……40:60 ~ 45:55

  RR……35:65 ~ 40:60

 

これが、フルブレーキではどう変化するでしょうか?

20~25%程度、前輪側に荷重が移動すると考えて良いと思います。

大雑把に、以下のような割合になります。

 

  FF……85:15

  FR……75:25

  AWD…80:20

  MR……65:35

  RR……60:40

 

 

荷重が大きく前輪に移動することが分かります。

こんなに荷重が移動するなら、後輪駆動の電気自動車では荷重が抜けるので、回生ブレーキで充分な制動力を得られません。

制動力の不足分は、通常のブレーキを使うしかないので、運動エネルギを回収できず、燃費が悪化します。

 

世の中には、FRのハイブリッドもありますが、ハイブリッドや電気自動車は、FRとは相性が良くありません。

その点、FFは制動時に駆動輪に荷重が加わるので、相性が良いと言えます。

理想的にはAWDが良いのですが、近年のタイヤ性能の向上ぶりを考えると、軽量化しやすいFFがバランスが良いように思います。

 

 

現在の自動車の動力性能は、公道を走るなら十分すぎるところまで向上しています。

今後は、快適性と安全性の向上が主となると予想されます。

従って、タイヤ性能の向上と同期して、将来的には、四輪の荷重は均等か、やや後ろ寄り(加速より減速性能が求められるため)に変化していくと思います。
最大の重量物になる電池は小さくはありませんが、分散搭載も可能ですし、形状の自由度も多少はあるので、搭載場所の自由度は低くありません。
重心位置は、自由に設計できます。
また、モーターは軽くありませんが、小型なので搭載位置の自由度が高く、インホイールモーター等の搭載方法も可能になります。
ガソリンエンジンなどの内燃機関は、単室排気量が大きいほど効率が向上させやすいので、エンジンは大きな一台にまとめる方が有利でしたが、モーターは小型にしても効率はほとんど同じですので、複数のモーターに出力を分散することができます。
つまり、AWDを採用しやすいのです。

そうなると、FFは廃れていくのかもしれませんね。

 

 


反原発を掲げる政党に言っておきたいことがあります。
 

反原発が個人の主張なら良いのですが、政党が主張するので、呆れてしまいます。

政治家であれば、理想を掲げ、そこに至る道筋を示し、妥協を重ねつつも、最終的に理想に近付けていくのが採るべき政策でしょう。


ところが、原発廃止については、「廃止できる」から「廃止すべきだ」となっています。

肝心なのは「廃止すべきか?」であって、「廃止できる」/「廃止できない」は、その先に考えることです。
「廃止すべき」と決まったら、「廃止できない」と言われても、どうやれば「廃止できる」かを検討して実現していくのです。
「廃止できるから廃止すべき」は、論理として間違っています。

初めに「原発廃止ありき」の主張では、議論の予知はなく、主張が通るか、通らないかの2パターンになってしまいます。
主張が通らなければ、安全ではない原発まで再稼動させることになりかねません。

妥協無き主張は、議論にならないので、極論で対抗することになります。
極論の一つが、『安全神話』なのです。

どうやら、昔の『安全神話』を生んだ土壌が、今も続いているようです。


 

太陽光mini



 

ついでに、地球温暖化防止の急先鋒にも言っておきたいところがあります。


反原発派と同様に、地球温暖化防止が正義のように思っているようですが、それは議論のすり替えです。

この世に絶対的な正義はありません。
それに地球温暖化防止は、人類のためであって、地球のためではありません。

温暖化は、地球の歴史の中では誤差程度の変化です。

その僅かな変化でも、人類の損亡に関わるだけです。

仮にこのまま放置したとしても、地球の生物が絶滅する事はありません。

過去に何度か起きた大量絶滅にも及ばないでしょう。

過去の生物による環境破壊では、植物の誕生による大気組成の激変があります。

しかも、大気に増えたのは、強い酸化力を持つ猛毒の酸素だったのですから、生態系も激変しました。

環境破壊前の嫌気性生物の代表が、破傷風菌です。

 


私はエゴイストです。

だから、私と私の子孫が生き延びるのに都合が良い環境を守ろうと考えています。

私は、エゴイストであると同時に、地球にかつて無かった知的生命だと自負しています。


その環境を生き残るために都合が悪い生命は、知的ではない故に淘汰されるだけでした。

自分に都合が良い環境を維持しようと考える生命こそ、知的生命の条件の一つを満たしているのです。

アメリカ大統領は、知的ではありません。

彼は、今だけを考えている下等生命です。

私は、彼より進化した知的生命です。

そして、エゴイストです。

将来に何を残すのかを考えられる生命です。

反論が来そうですが、その中に私より知的で、私よりエゴイスティックな生命体が居ることを期待しています。

 

原発事故と交通事故の話に戻りましょう。

交通事故を防ぐために自動車を廃止しろと主張しているのではありません。

そんな主張を展開していったら、人類は消滅する以外に道は無くなります。


 

人類が生きていく限り、事故は防ぎきれません。

人類が生きていく限り、環境破壊は続きます。

 

一方で、環境破壊は、人類の損亡に関わってきます。

人類自身のために、環境破壊は小さく抑えなければならないのです。

その観点から、自動車はどうしていくべきなのか、原発はどうしていくべきなのか、地球温暖化防止を含む環境破壊を考えていかなければならないのです。

つまり、メリットとデメリットを正しく評価し、あるべき方向性を得なければならないのです。

その結果、原発廃止の結論になるのであれば、それは仕方がないことです。


 

現状の反原発派は、原発事故をなくすための方策の議論には加わりません。

あくまでも、原発そのものを無くしたいのであって、原発事故を無くす事には無関心です。

無関心は、更に広がり、原発の代替とする再生可能エネルギーの『負』の部分にも関心がありません。

せいぜい、「原発事故よりマシ」との考え方で済ませてしまいます。

前述のように、再生可能エネルギーの建設と運用で必ず発生すると環境破壊が、もしかしたら起きるかもしれない程度の確率の原発事故よりマシと考えるべきなのか、デメリットについて正しく評価すべきです。

 

もう一つ付け加えるなら、妥協点を考えない姿勢に問題があります。

理想を掲げるのは良いのですが、理想に近づけていくのではなく、いきなり理想を達成しようとする考えは如何なものかと思います。

これでは、理想を達成するか、理想を完全に断念するかの、二者択一となってしまいます。

しかも、背反の問題が存在するので、必ずしも多数派とはなれない条件下にあるのです。

理想を押し通そうとしても、妥協点がないので議論ができないのです。

 


私の『再稼動派』ですが、『推進派』ではないとの考えは、妥協の産物なのです。


私は、東日本大震災前から原発は廃止すべきと考えていました。

その理由は、使用済核燃料の最終処分場が決まっていないこと、原発本体の解体後も敷地内に原子炉等の廃材を遮蔽・保管し続けなければならないためです。

つまり、一度でも原発として使用した土地は、半永久的に利用方法に制限を受け続けるのです。

 

ですから、震災で原発事故が発生した時は、これで無知な一般大衆も反原発に動くだろうと、期待もしました。

 

一方で、震災と前後して調べ始めた地球温暖化の重大さに気付き、考えを修正してきました。

その妥協の産物が、『再稼動派』ですが『推進派』ではないスタンスなのです。

 

 

再生可能エネルギーだけで経済を回す事は難しいようです。
これは、反原発派にとって厳しいでしょうが、火力発電所を止めたいには、更に厳しい内容です。

反原発派は、「原発さえ止められれば良い」、あるいは「他のことは、原発を止めてから考えれば良い」といった軽い考えでしょうが、私は違います。

私は、原発再稼動派ですが、原発推進派ではないので、精々30年後には原発も止めざるを得ません。

しかし、現状を考えると、原発新設の妥協も考えなければならないかもしれません。

妥協点を含め、『2100年の日本のあるべき姿』に反映していくつもりです。

 

 

太陽光mini



 

さて、原発問題ですが、私は「原発再稼動派」ですが、「原発推進派」ではありません。

その私から見ると、先々に待ち構える使用済み核燃料や放射性廃棄物の問題などを考えずに「原発推進」を唱える人々も、反原発こそ正義と思い込んでいる「反原発派」の人々も、底が浅く見えてしまいます。

 

特に気になるのは、『反原発』を主張される方々です。

『反原発』が最初にあり、後から理由付けをしているように思えるのです。
それ故、主張と理由の間にアンバランスを感じます。

私を含めた原発再稼動派が言うように、交通事故死との違いをどう考えるのかを問うた時に、その傾向が顕著に現れます。


『原発事故は絶対に許さない』との考えで、いかなる対策も『完璧ではない』として認めようとはしません。

ところが、御自身は車を運転するのです。

車を運転する限り、完璧に事故を防ぐことはできません。

保険に加入していても、事故を防げないことには変わりありません。

人を殺す可能性があるにも関わらず、なぜ車を運転するのか?

あるブログで議論した際、「交通事故は一つ一つは小さいので国家の損亡には影響しないが、原発事故が再び起きれば国家の基盤が傾く」との意見がありました。

一理あるのですが、では交通事故の被害者に「国家の損亡には影響しない」と言えますか。

被害者や被害者家族は、健康な体を返して欲しいのです。亡くなった人を返して欲しいのです。事故前の生活を返して欲しいのです。

国家の損亡なんか、日々の生活に比べればどうでも良いのです。

国家の損亡に関わるか否かは、個人には大きな影響はないとも言えるのです。


先程の主張は、原発事故は国が関与するから問題であり、交通事故は国が関与しないから問題ではないと言っているだけにすぎないことが、この論旨からみえてきます。

 

結論を言ってしまえば、再生可能エネルギーの発電量に応じて、消費電力量を調整する生活を送るしかないということです。


現在の電力は、需要に合わせて供給を調整しています。
ですが、発電力の制御が難しい再生可能エネルギーでは、供給に合わせて需要を抑制することになります。
それが、「再生可能エネルギーの範囲内で経済を回していく」ことを意味します。

暑くても寒くても、電力が足りないなら冷暖房を止めるのです。

それをしなければ、周波数が低下し、水力発電所や地熱発電所の発電機が停止してしまい、大規模な停電になるかもしれません。

一般家庭でも、不意の停電は冷蔵庫が止まったりして困りものですが、工場は停電で機械が故障したり、製品がダメになったりすることもあるので、損失は更に大きくなります。

その損失も、最終的には消費者に降りかかってきます。

場合によっては、企業の国際競争力が低下し、大量の失業者を抱えることになるかもしれません。

 

再生可能エネルギーの普及が進んでいると評価されるドイツですが、実態を見ると問題は少なくありません。

まず、電力が不足した際には、国外から電力を購入しています。

その中には、フランスの原発で発電した電力も含まれます。

また、再生可能エネルギーで発電した電力を国外に輸出しているのですが、全てを買い取ってもらえる訳ではありません。

廃棄物の扱いで、電力を有償で引き取って貰う場合もあるのです。

発電すればするほど、国外の電力会社に支払うお金が増えるのです。

それくらい、余った電力の処分は大変なのです。

しかも、今後、周辺国が再生可能エネルギーへ転換していけば、現在は販売できている電力も買い手が付かなくなり、更には有償でも電力を処分してくれる国がなくなってしまうかもしれません。

 

日本は、海外の電力系統とは繋がっていません。ドイツより厳しい環境にある日本において、余った電力はどうするのか、キチンと考えておかなければなりません。


 

こうして考えてくると、「再生可能エネルギーの範囲内で経済を回していく」未来社会の実現は厳しいものがあるように思えます。

 

↑このページのトップヘ