新・風の谷の生活

食糧自給率の向上を目指して!

カテゴリ:地球温暖化 > 原子力発電


反原発を掲げる政党に言っておきたいことがあります。
 

反原発が個人の主張なら良いのですが、政党が主張するので、呆れてしまいます。

政治家であれば、理想を掲げ、そこに至る道筋を示し、妥協を重ねつつも、最終的に理想に近付けていくのが採るべき政策でしょう。


ところが、原発廃止については、「廃止できる」から「廃止すべきだ」となっています。

肝心なのは「廃止すべきか?」であって、「廃止できる」/「廃止できない」は、その先に考えることです。
「廃止すべき」と決まったら、「廃止できない」と言われても、どうやれば「廃止できる」かを検討して実現していくのです。
「廃止できるから廃止すべき」は、論理として間違っています。

初めに「原発廃止ありき」の主張では、議論の予知はなく、主張が通るか、通らないかの2パターンになってしまいます。
主張が通らなければ、安全ではない原発まで再稼動させることになりかねません。

妥協無き主張は、議論にならないので、極論で対抗することになります。
極論の一つが、『安全神話』なのです。

どうやら、昔の『安全神話』を生んだ土壌が、今も続いているようです。


 

太陽光mini



 

ついでに、地球温暖化防止の急先鋒にも言っておきたいところがあります。


反原発派と同様に、地球温暖化防止が正義のように思っているようですが、それは議論のすり替えです。

この世に絶対的な正義はありません。
それに地球温暖化防止は、人類のためであって、地球のためではありません。

温暖化は、地球の歴史の中では誤差程度の変化です。

その僅かな変化でも、人類の損亡に関わるだけです。

仮にこのまま放置したとしても、地球の生物が絶滅する事はありません。

過去に何度か起きた大量絶滅にも及ばないでしょう。

過去の生物による環境破壊では、植物の誕生による大気組成の激変があります。

しかも、大気に増えたのは、強い酸化力を持つ猛毒の酸素だったのですから、生態系も激変しました。

環境破壊前の嫌気性生物の代表が、破傷風菌です。

 


私はエゴイストです。

だから、私と私の子孫が生き延びるのに都合が良い環境を守ろうと考えています。

私は、エゴイストであると同時に、地球にかつて無かった知的生命だと自負しています。


その環境を生き残るために都合が悪い生命は、知的ではない故に淘汰されるだけでした。

自分に都合が良い環境を維持しようと考える生命こそ、知的生命の条件の一つを満たしているのです。

アメリカ大統領は、知的ではありません。

彼は、今だけを考えている下等生命です。

私は、彼より進化した知的生命です。

そして、エゴイストです。

将来に何を残すのかを考えられる生命です。

反論が来そうですが、その中に私より知的で、私よりエゴイスティックな生命体が居ることを期待しています。

 

原発事故と交通事故の話に戻りましょう。

交通事故を防ぐために自動車を廃止しろと主張しているのではありません。

そんな主張を展開していったら、人類は消滅する以外に道は無くなります。


 

人類が生きていく限り、事故は防ぎきれません。

人類が生きていく限り、環境破壊は続きます。

 

一方で、環境破壊は、人類の損亡に関わってきます。

人類自身のために、環境破壊は小さく抑えなければならないのです。

その観点から、自動車はどうしていくべきなのか、原発はどうしていくべきなのか、地球温暖化防止を含む環境破壊を考えていかなければならないのです。

つまり、メリットとデメリットを正しく評価し、あるべき方向性を得なければならないのです。

その結果、原発廃止の結論になるのであれば、それは仕方がないことです。


 

現状の反原発派は、原発事故をなくすための方策の議論には加わりません。

あくまでも、原発そのものを無くしたいのであって、原発事故を無くす事には無関心です。

無関心は、更に広がり、原発の代替とする再生可能エネルギーの『負』の部分にも関心がありません。

せいぜい、「原発事故よりマシ」との考え方で済ませてしまいます。

前述のように、再生可能エネルギーの建設と運用で必ず発生すると環境破壊が、もしかしたら起きるかもしれない程度の確率の原発事故よりマシと考えるべきなのか、デメリットについて正しく評価すべきです。

 

もう一つ付け加えるなら、妥協点を考えない姿勢に問題があります。

理想を掲げるのは良いのですが、理想に近づけていくのではなく、いきなり理想を達成しようとする考えは如何なものかと思います。

これでは、理想を達成するか、理想を完全に断念するかの、二者択一となってしまいます。

しかも、背反の問題が存在するので、必ずしも多数派とはなれない条件下にあるのです。

理想を押し通そうとしても、妥協点がないので議論ができないのです。

 


私の『再稼動派』ですが、『推進派』ではないとの考えは、妥協の産物なのです。


私は、東日本大震災前から原発は廃止すべきと考えていました。

その理由は、使用済核燃料の最終処分場が決まっていないこと、原発本体の解体後も敷地内に原子炉等の廃材を遮蔽・保管し続けなければならないためです。

つまり、一度でも原発として使用した土地は、半永久的に利用方法に制限を受け続けるのです。

 

ですから、震災で原発事故が発生した時は、これで無知な一般大衆も反原発に動くだろうと、期待もしました。

 

一方で、震災と前後して調べ始めた地球温暖化の重大さに気付き、考えを修正してきました。

その妥協の産物が、『再稼動派』ですが『推進派』ではないスタンスなのです。

 

 

再生可能エネルギーだけで経済を回す事は難しいようです。
これは、反原発派にとって厳しいでしょうが、火力発電所を止めたいには、更に厳しい内容です。

反原発派は、「原発さえ止められれば良い」、あるいは「他のことは、原発を止めてから考えれば良い」といった軽い考えでしょうが、私は違います。

私は、原発再稼動派ですが、原発推進派ではないので、精々30年後には原発も止めざるを得ません。

しかし、現状を考えると、原発新設の妥協も考えなければならないかもしれません。

妥協点を含め、『2100年の日本のあるべき姿』に反映していくつもりです。

 

 

太陽光mini



 

さて、原発問題ですが、私は「原発再稼動派」ですが、「原発推進派」ではありません。

その私から見ると、先々に待ち構える使用済み核燃料や放射性廃棄物の問題などを考えずに「原発推進」を唱える人々も、反原発こそ正義と思い込んでいる「反原発派」の人々も、底が浅く見えてしまいます。

 

特に気になるのは、『反原発』を主張される方々です。

『反原発』が最初にあり、後から理由付けをしているように思えるのです。
それ故、主張と理由の間にアンバランスを感じます。

私を含めた原発再稼動派が言うように、交通事故死との違いをどう考えるのかを問うた時に、その傾向が顕著に現れます。


『原発事故は絶対に許さない』との考えで、いかなる対策も『完璧ではない』として認めようとはしません。

ところが、御自身は車を運転するのです。

車を運転する限り、完璧に事故を防ぐことはできません。

保険に加入していても、事故を防げないことには変わりありません。

人を殺す可能性があるにも関わらず、なぜ車を運転するのか?

あるブログで議論した際、「交通事故は一つ一つは小さいので国家の損亡には影響しないが、原発事故が再び起きれば国家の基盤が傾く」との意見がありました。

一理あるのですが、では交通事故の被害者に「国家の損亡には影響しない」と言えますか。

被害者や被害者家族は、健康な体を返して欲しいのです。亡くなった人を返して欲しいのです。事故前の生活を返して欲しいのです。

国家の損亡なんか、日々の生活に比べればどうでも良いのです。

国家の損亡に関わるか否かは、個人には大きな影響はないとも言えるのです。


先程の主張は、原発事故は国が関与するから問題であり、交通事故は国が関与しないから問題ではないと言っているだけにすぎないことが、この論旨からみえてきます。

 

原発廃止論、あるいは原発不要論では、「原発が無くても電力は不足しない」と言います。

東日本大震災直後は、電力不足で輪番制の計画停電が行われましたが、これに対して陰謀説
(本当は電力は足りているが、原発を再稼働するための伏線として電力不足を装った)まで
出てきました。
流石に、陰謀説を主張する原発廃止論者はホンの一部ですが、「電力は不足しない」との
説には知識不足が見え隠れします。


震災直後の電力不足は、大型火力発電所も津波被害を受けていた事が挙げられます。
3月は、季節的に電力需要が低い時季です。
つまり、発電設備には余裕があり、それを利用して発電所のメンテナンスを行います。
ですので、追加で発電できる余力は大きくなく、原発に加えて火力発電所も止まったため、
一気に電力不足に堕ちったのです。
更に、日本特有の問題である50Hz地域と60Hz地域に分かれているため、電力融通に
制約があります。
震災直後の電力不足は、このような事情によるものです。

その後の電力不足は、老朽化で停止中の火力発電所の再起動と大口需要家の節電等で
切り抜け、新規火力発電所の整備、再生可能エネルギー等の発電力の増強で賄いました。

ところで、震災の年の夏、ほぼ原発の発電分に相当する節電が行われましたが、
この節電の8割以上は大口需要家で、一般家庭の節電量は2割にも満たなかったのです。
「電力不足」を訴えているのは大口需要家であって、「電力が足りている」と主張するのは
僅かしか節電していない人々のようです。
この辺りを知った上で「電力が足りている」と言っているなら、厚顔無恥ですよね。


さて、電力不足ですが、現状ではほぼ改善されています。
原発不要論の「原発が無くても電力は足りている」は、現時点では間違っていません。
ですが、これが地球温暖化対策を主眼に考えると、どうでしょうか。
原発を稼働すれば、同量の火力発電所を停止でき、二酸化炭素の排出量を減らせるのです。
「原発が無くても電力は足りる」と考えるより、「火力発電所が無くても電力は足りる」と
言えるようにすべきだと思います。

原発不要論の背景には、政府が掲げる温室効果ガス排出28%削減の目標があるでしょう。
おそらく「政府目標は原発再稼働が前提。だけど原発分は再生可能エネルギで代替が可能」
と考えているのでしょう。

この考えは、三つの誤りを抱え込んでいます。
一つは、政府の削減計画には自然エネルギ分も組み込まれているので、
「原発分は再生可能エネルギで置換」との考えは、再生可能エネルギ分をダブルカウント
している事になるのです。
二つめは、再生可能エネルギによる原発の代替は、発電の性質上、不可能であることに
気付いていない、または安易に考えていることでしょう。
原発は、任意に設定した一定の出力を継続できます。
一方、再生可能エネルギ(一部の発電方式を除く)は出力を一定に保つことができません。
蓄電でこれを解決できるとする考えもありますが、蓄電に必要な設備の規模と能力は、
完全に無視されています。
三つめは、政府の目標を達成するだけで原発不要と考えていることです。
一人当たりの温室効果ガス排出量を地球の吸収能力まで削減するには、
日本では76%の削減が必要です。
政府目標は、これの三分の一しかない実に甘い目標なのです。
しかも、76%の削減自体も、温暖化を改善する値ではなく、これ以上の進行を止めるだけ
の甘めの目標なのです。
IPCCでは、「温室効果ガスの排出をほぼゼロにすべき」と提言しているのです。


温暖化を防ぐには、リスクを背負ってでも対策しなければならない厳しい問題なのです。
「原発不要論」からは、そんな現実から目を逸らしている感情論にしか映らないのです。

↑このページのトップヘ