豊葦原中津谷のニニギ

食糧自給率の向上を目指して! (2100年の日本へワープ)

カテゴリ: 日記

パラスポーツに限りませんが、陸上競技は、記録との戦いでもあります。
近年、用具の改良が進み、パラアスリートの記録が健常者の記録に迫り、中には超えているものもあります。
義足の走り幅跳びは、世界記録の8m95cmに対して、義足の世界記録では8m62cmと肉薄しています。
車椅子マラソンでは、健常者の記録を遥かに超えています。

実は、車椅子の記録は、ちょっとした特徴があります。

健常者の記録では、100mが最も早く、距離が長くなるに従って遅くなっていきます。
ですが、車椅子では、様相が異なります。
なんと、100mが最も遅いのです。

健常者の記録でも、20世紀末時点の世界記録では、100mが9秒79に対して、200mは19秒32(100m換算で9秒66)でした。(※女子は、100mが早い)
つまり、スタートからの加速に時間が掛かるため、特に短距離の車椅子競技では、加速区間の影響が強く出るのです。

では、車椅子の距離毎の記録は、どうなっているのでしょうか。(パラリンピック記録)

・100m   13秒63
・200m   22秒81    (11秒41)
・400m   43秒46    (10秒87)
・800m   1分29秒55  (11秒78)
・1500m  2分49秒55  (11秒31)
・5000m  9分42秒83  (11秒66)
・マラソン   1時間20分15秒(11秒41)


なんと、100mが最も遅いのです!
それも、断トツに遅い!!

もう一つの特徴は、距離に関係なく、ほぼ同じ速さなのです。
スピードに乗ってしまえば、距離が伸びても、ペースを維持できるようです。

それにしても速い!

健常者のマラソンでは、キプチョゲ選手の2時間1分39秒です。キプチョゲ選手は、非公認ながら2時間を切ったとも伝えられていますが、車椅子の記録には遠く及びません。
車椅子マラソンの記録は、健常者の400m走のペースを42.195kmも継続しなければなりません。
男子車椅子マラソンのペースは、女子100m走のトップ選手が100mを併走するのもギリギリの速さなのです。



さて、マラソンの世界記録は、大分国際車椅子マラソン大会での記録です。
この大会は、日本初の車椅子が参加できるマラソン大会であると同時に、世界初の車椅子専門のマラソン大会なのだそうです。

この大会の開催に尽力されたのは、日本パラリンピックの父と言われる中村裕博士です。
中村裕氏は、『太陽の家』の設立者でもあります。ここは、障害者の自立を目的としていて、自立の証として、障害者自身が税金を納めることを目標としていたそうです。

先日も書きましたが、私たちは、1人で生きることは不可能です。
でも、誰でも何か一つくらいは、社会に貢献できるものです。
『太陽の家』は、それを実践してきたのだと思います。

車椅子マラソンは、健常者のマラソンより遥かに早いことは、先に書いた通りです。
同じように、工夫次第で、障害を超えた力を出すことも可能なのです。
視野を広げると、誰もが多くの障害を抱えているとも言えます。誰でも、できることより、できないことの方が、はるかに多いのです。
だから、助け合いながら生きるのです。
そのレベルで考えるようになれば、障害は個性でしかなくなると思います。

全人口の15%が、障害を持って暮らしているそうです。

俄には信じられません。

「全人口の15%もいるのか」との気持ちと、「85%も正常な人がいるのか」との気持ちがあります。



まず、「全人口の15%」は、かなり多い印象です。
15%は、ざっと±1.4σの外側を意味します。偏差値で、36以下か、64以上です。
マイナス側だけとしても、概ね-1σ以下ですから、偏差値なら40以下です。
そこら中に、障害を持つ人がいることになります。(法的な障害者には当たらない)

私は、「1.5σの人」を自認しています。
色々な部分で、±1.5σの外側にいるのです。
身長や肥満度や血圧など、身体的あるいは健康面でも、±1.5σの外側にいました。
学業では、担任が呆れるほど、プラス側の科目、マイナス側の科目に分かれていました。
こんな私ですから、探せば障害に相当する項目がいくらでも出てくるでしょう。

そう言えば、現職の総理も、コミ障ですよね。
「誹謗するな」って?
誹謗にはなりませんよ。
これが誹謗なら、「15%が障害を持つ」と言うこと自体が誹謗に相当してしまいます。
(言い訳になってるかな?)

大事なことは、障害は身近にあり、それを本人も周囲も当たり前に受け入れ、助け合っていくことにあります。
正確には、人類の全員が障害を抱えているようなものです。



数日前、パラリンピックが閉幕しました。
パラ・アスリートの驚異的な能力、努力と共に、伴走や補助を務める方々との共同作業は、素晴らしいものでした。
できれば、新型コロナを抑え込んで、来年の開催を願っていました。そうすれば、もっと身近にパラ・アスリートを感じることができたでしょう。
強行開催で、パラ・アスリートとの距離を縮めることが難しくなったのは残念でした。


障害があると、日常生活でも人の手を借りる必要があるでしょう。
でも、障害者が無くても、私たちは、他の人の力を借りて生きています。
当ブログのように、自給自足を目指すと、いかに人々の助け合いの中で生きているのか、改めて考えさせられます。

朝、起きた時、照明を点けるには、電力が必要です。照明器具が必要です。
朝食の準備をするには、水が必要です。食糧が必要です。ガスが必要です。包丁やまな板も必要です。
通勤や通学では、自転車や自動車が必要です。鉄道が必要です。
職場や学校でも、机が必要です。紙が必要です。ペンが必要です。パソコンが必要です。
お風呂に入る時も、石鹸やシャンプーが必要です。
寝る時も、ベッドやシーツ、布団等が必要です。

あなたは、これらのどれが作れますか?
そもそも、照明や自動車やパソコンの構造が分かりますか?
私は、工学系なので、多くの工業品の基本的な仕組みは知っています。知っていますが、作れそうなものはありません。
「まな板くらい、作れるだろう」って?
それは、甘いですよ。板と鋸やカンナがあれば、作れるでしょう。
でも、木を板に製材できますか?
鋸やカンナは、作れますか?
製鉄も、加工も、簡単ではありません。銑鉄からも、炭素を抜かなければなりません。
鉄が無くても、黒曜石か頁岩があれば何とかなるかもしれませんが、これらの産出地はどこですか?

結局、何もできませんよね。


私たちは、人類全体で助け合って生きているのです。
身体的な障害があるか、ないかは、関係ありません。
誰でも作れそうなまな板でもさえも、完全にゼロからとなると作り方もわからないのです。
私たちは、まな板でさえ、作ることができないのです。
ある意味で、人類は全員が何らかの障害を持っているようなものなのです。
だから、補い合い助け合って生きていくのが当たり前なのです。



「15%が、何らかの障害を持っている」
私には、「自分は85%側に入っている」と自惚れている人の言葉に聞こえます。

「人類の100%は、個々に多くの障害を持っている」
だから、助け合うのです。

必要な助けの種類や程度は様々ですが、助け合わなければ、誰も生きていけないのです。

日頃から、声を掛け合い、助け合い、一緒に生きていきたいものです。

『池袋の暴走事故』として知られる事故の一審の判決が出ました。

禁錮5年。
実刑でした。

個人的な感情としては、反省の態度が皆無なので、求刑通りの禁錮7年を期待していましたが、判決は妥当なところだろうと思います。

世間では、「刑が軽い」との意見もありますが、少々感情に流されている感があります。


この事故の最大の問題点は、加害者に反省が見られないことです。更には、加害者が、俗に「上級市民」と言われる社会的地位がある人物だったことです。
つまり、社会的地位を持つ人物が事故を起こしたが、全く反省が見られない点が、加害者への怒りとなり、強い罰を求める気持ちになっています。

確かに、加害者の反省の無さは、呆れるばかりです。その内容も非論理的で、理系のキャリアが言うこととは思えません。
(※具体的な矛盾点は、スピンオフ・ブログに書いているので省略します)

ですが、被告が意図して事故を起こしたわけではなく、事故前に意図的な危険運転を続けていたわけでもありません。飲酒運転でもありません。
事故自体は、加害者の過失によるものです。
つまり、私達も起こす危険性がある事故なのです。
「加害者が高齢だったのに運転を続けたから事故に繋がった」と考える方もいるかもしれませんが、高齢でなければ起きなかったと断言することはできません。
若い世代でも、起こしてしまう可能性がある事故です。
現在まで無事故無違反の伊牟田ですが、その私も起こす可能性があるのです。
2019年には、3215人が交通事故で亡くなっています。あの2人だけでなく、その1000倍以上が、交通事故で亡くなっているのです。
池袋暴走事故だけを特別扱いにすることはできません。


一つだけ、判決に不満を言うなら、求刑通りでなかったことです。

求刑から減刑した理由は、社会的制裁を受けたからだそうです。
ですが、社会的な批判を浴びた理由は、被告に反省が全く見られないからです。そして、これほど批判を浴びながら、無理筋の弁明で無罪を訴えたからです。
これでは、社会的制裁を受けても仕方ありません。
更には、直ぐには逮捕・拘束されず、 一般人との差が批判されました。
社会的制裁を受けたと言うより、社会から保護されていた印象が残ります。 
逆に、ここまで反省がない被告でも禁錮5年なら、最高刑の7年は誰に出すのかと。

真摯に反省していれば、禁錮3年・執行猶予5年くらいだったのでは、と思います。反省の無さが実刑判決に繋がったので、結局、本人も損をしているとも言えますね。


判決前、被告は上告しないと言っていたそうですが、これまでの態度から、たぶん上告すると、私は思っています。

控訴期限は、9月16日になるはずです。
可能性は低いかもしれませんが、被告が控訴しないことを願っています。

昨日、投開票が行われた横浜市長選挙の投票率は、49.05%でした。
前回の市長選挙は、37.21%でしたので、大幅に増加しました。

ですが、これでも半分です。
本来であれば、投票率は最低でも2/3を超えて欲しいところです。


横浜市長選挙の過去の投票率を見ると、1978年の第9回以降は、概ね30%台で推移しています。
例外は、第17回の68.76%と今回だけです。それ以外は、第10回の39.76%が最高で、第18回では29.05%と、低調でした。
ここまで投票率が低いと、民意が反映されたとは言い難いでしょう。
逆に言うと、組織票で選挙が決まりやすくなります。組織票は、政党の意向で動きますから、政党が民意を無視して好きに権力を行使できるようになります。


一般に、浮動票と呼ばれる票があります。
特定の支持政党がなく、その時々の状況で投票行動を変える票です。
本来の選挙は、この浮動票だけであるべきです。

「全てが浮動票では政党政治ではなくなる」と、考える方もおられるでしょう。
政党政治は、同じ考えを持つ方が政党を組むことで、議会で主張を通しやすくすることと、選挙において自党への投票を促すことのはずです。
有権者は、その時点の自分の考えに近い政党に投票することになります。つまり、民意によって、政党が淘汰されます。淘汰されたくなければ、民意を汲む必要があります。

組織票は、有権者の20%もあると言われています。こんなにあると、40%前後の投票率であれば、選挙結果は開票しなくてもわかります。
民意を反映するため、出来るだけ高い投票率が望ましいのです。


次回の総選挙では、高い投票率になることを願っています。

教員免許の更新制度が廃止されるそうです。

実は、私も大学卒業時点で教員免許を取得していましたが、1度も更新していないので、失効しているはずです。

更新制度自体が廃止されるなら、更新せずに失効した人は、復権されるのでしょうか。

私の場合、教員免許を使うことは今後もないと思いますが、更新を忘れただけで離職された方がおられるので、気になるところです。

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