我が「豊葦原中津谷」は、ネット世界の辺境にあります。
訪れる人はまばらで、日々、孤独と闘っています。 (^^)
なぜ、訪れる人が少ないのか、考えてみると、「辺境の地」だからではなく、「偏狭の知」だからではないかと、思うのです。
例えば、地震予知です。
旅人を呼び込むのなら、「地震予知はできる」と称して、地震予知情報を流しておけば良かったのです。
地震予知情報を流すのは気象法違反に当たりますが、著名人も逮捕されていないので、無名で辺境にある当ブログまで捜査の手が伸びることはないでしょう。
私の実力なら、地震予知情報を、そこそこの成功率にできます。
実際、偽地震予知の検証において、出鱈目でも成功率は稼げることを証明する際に、80%の成功率を稼ぎました。
にも関わらず、常識的で面白みに欠ける「地震予知はできない」を展開してしまったのです。
これでは、旅人には、「あそこは、偏狭な御仁が門番をしている」と、敬遠されてしまいます。
他にも、オスプレイを危険だとすれば良いものを、安全とは言わないものの、「危険と断定するのはおかしい」なんて言うものだから、誰も立ち寄らなくなっています。
「体制側に洗脳された愚かな奴」と見られているのかもしれません。
でも、気付いてしまったのです。
「オスプレイは危険だ!」、「否!、オスプレイは安全だ」と言っている人達は、オスプレイの技術面には関心が薄く、知識も理解もレベルが低いことに。
例えば、オスプレイは「転換モードで事故が多い」とし、それを欠陥のように言います。
でも、固定翼でも、引込み脚やフラップの操作ミスや故障による事故は、かなりあります。
実際、魔の11分(離陸後3分、着陸前8分)に、航空機事故の7割が発生しています。
でも、これをもって、「固定翼機は欠陥機」とは言いません。
固定翼機が『魔の11分』の対策をしてきたように、オスプレイで転換モード時に事故が多いのなら、なぜ転換モードで事故が多いのか、どうすれば事故を減らせるのか、等の議論があるべきです。
でも、「オスプレイは危険だ」との結論が先に決まってしまっているので、技術論ではなく、感情論となってしまっています。
なので、オスプレイの構造や能力を考えつつ、有事における優位性から、「オスプレイは配備されるべき」との結論を導いています。
ここまでを見ると、私は、保守的で体制派のように見えていることでしょう。
ところが、私は憲法9条の改正には反対なのです。
憲法9条は、一方的な『不可侵条約(宣言)』のようなものです。
戦争を始めるためには、口実が必要です。
口実は、主として自国民に向けたものです。
自国民が、銃を握り、相手国へ攻め入ってくれなければ、戦争になりません。
軍部に命じるにしても、口実もなく命じることはできません。
口実は、目的でもあるので、それを達成するための戦略、戦術を考える上でも、口実が必要になるのです。
ところが、憲法9条があると、口実を作りにくいのです。
「日本を攻撃しなければならない」との危機感を、自国民に説明しづらいのです。
そこで、嫌がらせをして、自ら憲法9条を棄てさせようとしているわけです。
これは、『不可侵条約』を日本から破棄するようなものなので、それ自体が口実にも使えるのです。
今の時代、中国の口車に乗って、自ら憲法9条を捨てて、中国とガチンコ勝負をしたいと考える人が多いようです。
でも、日本と中国のGDPの差は、ボクシングで言えば、ライトフライ級がスーパーヘビー級に挑むくらいの差になります。
クラス外との試合を許されたライトフライ級を、スーパーヘビー級が怖がって対戦を避けることがあるのか、想像できないようです。
やれやれ・・・
このように、偏狭な内容なので、オスプレイの件では、左派の人からは極右のように見られ、護憲であることから、右派の人からは極左のように見られているようです。
それでも、辺境の地で、偏狭的な話題を続けていくことにします。
まぁ、「偏狭は、死ななきゃ治らない」くらいに思っていてください。
ただ、偏狭ではあるものの、その論理や知見は、真面目に見ておいた方が良いですよ。
偏狭か、否かは、実は、中身の質で決まるのではありません。
意見に同意する者が少なく、一般論とは異なる考え方だから、『偏狭』とされるのです。
中身が関係するのは、意見が一般論とは異なる点だけです。
偏狭の意見でも、無価値ではない場合もあるのです。
ただ、偏狭の意見から価値を引き出すには、それなりの条件が必要になります。
具体的には、二つの要素で決まります。
・偏狭の説が、真実の知見から論理的に導かれていること。
・受け手が、偏りのない知見と論理的思考力を、持ち合わせていること。
一般論は、大概は正しいものです。
つまり、大概は、偏狭の説は正しくはないということです。
それでも、稀に、聞く価値がある場合もあります。
教会は、大概は正しいこと言っていたはずです。
でも、"天動説"を押し付けていました。
そこに、何人かの偏狭が現れ、"地動説"を唱え始めました。
教会、あるいは神を盲信する人々は、"地動説"の論理を理解せず、結果、教会が主張する"天動説"から脱却できずに、"地動説"を主張する人を迫害してしまったのです。
偏狭が論理的に導いたことを、考えもせずに、頭ごなしに否定したのです。
もし、偏狭の説明を理解できる力量と柔軟さがあったなら、"地動説"も一考に値することに気付き、より早く天文学が進んだはずです。
もし、今も"天動説"にこだわっていたなら、衛星放送もGPSも無かったでしょう。
偏狭の私が正しいことを言っているのかは、私自身には判定できません。
ただ、論理的に説明するように努めているので、教養と柔軟性を兼ね備えた第三者であれば、私の考えの正誤を判断できると思います。
もし、この「偏狭の知」に価値が存在していたなら、賢く利用してください。
ついでに、この辺境の地にも光が射すよう、お願いします。
どんな手段で光を導くかは、皆さんにお任せします。
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